意外と知らないマルティン・ルター
- 2020.04.15
1500年時点で、ヨーロッパのほぼ全域がキリスト教を信仰していました。
中世ヨーロッパの諸王国は、互いに争い戦うことが多かったのですが、どの国も同じ神を信仰していました。
5世紀にローマ帝国が崩壊してからキリスト教は急速に普及し、ついにはフランス、イギリス、ドイツ、ロシア、スカンジナビア半島に広まりました。
しかし、この統一の影で、中世では教会に対する不満が高まっていました。
ペストによって多くの人が亡くなるのを、なぜ神が放置しているのか理解できず、信仰に迷いを抱くようになりました。
ペスト後のルネサンスはキリスト教の従来の教義に疑問を投げかけ、ローマ・カトリック教会そのものの腐敗と汚職に、熱心な信者たちは幻滅していきました。
1517年、不満を募らせていたドイツ人聖職者マルティン・ルターは一枚の文書をヴィッテンベルク城教会の扉に打ち付けました。
この文書が、教皇の首位権とローマ・カトリック教会の全体的状況を痛烈に批判するルターの『95か条の論題』でした。
ルターが主に非難したのは、ローマの教会上層部があまりにも強欲で堕落しているという点でした。
当時、教皇は新たな大聖堂建設の資金とするため、裕福な一般教徒に贖宥状(免罪符)を売っていました。
贖宥状(免罪符)を買った者は、罪に対する罰が公式に免除されました。
この最も高値を付けた者に罰の許しを売る行為に、ルターは強く憤慨していました。
発表の直後から『95か条の論題』はヨーロッパのキリスト教内部に大きな亀裂を生み出し、ルターの教会批判は、ヨーロッパ各地で人々に受け入れられました。
ルターの支持者たちはプロテスタントとなり、宗教改革と呼ばれる運動を通じて、教皇が持っていた従来の権威を否定しました。
数年のうちに、イギリスなど北ヨーロッパの多くの地域が教皇の首位権を否定し、ヨーロッパ大陸は宗教によって分断されました。
ローマで教皇がルターを異端だと宣告すると、カトリックとルター派のあいだで一連の宗教戦争が起こりました。
この宗教戦争は断続的に100年程続き、1648年のウェストファリア条約でようやく集結しました。
ルターがカトリック教会に反旗を翻したことで、西ヨーロッパの宗教的統一は永遠に失われたと言われています。